東村山市教育相談室・専門相談員の清水洋邦さんの、心理学の立場から思う「子育て」についてのお話しです!


第2回 小さな世界
 暦の上では梅雨だというのに、とても暑い日々が続きますね。このまま行くと、夏はどれだけ暑くなるのか、今からちょっと心配しています。先日、急に暑くなったせいか、夏ばて気味になってしまいました。皆さまも気をつけてくださいね。
 さて、暑いといえば、パプアニューギニアという国をご存知でしょうか?
 インドネシアの隣国で、人口は570万人、首都はポートモレスビー。
 インターネットで検索しますと、美しい南国の楽園、という雰囲気の写真が幾つも見つかります。ただし、現在は政情の不安から治安が悪く、6月24日現在、外務省からは「十分注意してください」という危険情報が出されています。

 <パプアニューギニアに置いてくるぞ>
 いきなりパプアニューギニアの話で面食らった方もおられると思いますが、これは今回の話に少し関連があります。と言っても、パプアニューギニアの子育ての話ではなく、私の家族の話ですが…
 私には2歳下の妹がいます。この妹が幼稚園に通っていた時期の話です。当時私は小学校に上がったばかりでした。
 ある時、妹がいたずらをやったわけです。もう内容は覚えていないのですが、とにかくそれに対して父が怒りました。間の悪いことに、たまたまテレビがついていて、そこにパプアニューギニアの映像が出ていたんですね。旅行の番組だったと思います。それが目に入ったらしく、父がお説教の途中で「お前みたいな子はパプアニューギニアに置いてくるぞ」とまあ、こう言ったわけです(誤解の無いように書きますが、父はパプアニューギニアが嫌いだとか、そういうことはありません。たまたま目に止まっただけで、これがアメリカでもソ連でも同じようなことを言ったと思います)。そうしたら、妹はテレビを見て、泣き出した。

 <ひどく怒ったわけじゃないのに…>
 とまあ、こんなエピソードがあったわけです。
 もちろん、実際にパプアニューギニアには行ってません。
 妹にとっては非常にショックだったらしく、彼女は今でもパプアニューギニアの名前を聞くと、このことを思い出すそうです。先日帰省した時も、いきなりテレビのチャンネルを変えるんです。何かと思えば、パプアニューギニアの話をやっていたから。まあ、今では彼女なりのユーモアというか、話題の一つに昇華させてる節はあります。ただ、当時物凄く怖かった、ショックだったというのは事実のようです。
 ですが、父がそれほど激しく怒っていたかというと、それほどでもないと思うんです。父は真面目というかなんというか、本当に怒り始めると他のものは目に入らなくなります。テレビなんか見る暇はない。それと、怒ると非常に怖かったので、端で見ているこっちがつられて泣くとか、そういうこともありました。でも、そういう感じではなかったはずです。少なくとも、怒り心頭に達するとか、そういう雰囲気ではなかったと思います。

 <子どもの世界>
 ここでちょっと、子どもの世界というものを考えてみましょう。つまり、子どもにとっての、人生や世の中といったものが、どういう風に構成されているかということです。
 当たり前の話ですが、同じ人間であっても、子どもの世界というのは大人の世界よりもとても小さく完結しています。これは情報量の差と言い換えてもいいでしょう。判断材料がそれだけ少なくなっているわけです。
 例えば、世界にはどれだけの国があって、そこでどのような人々が暮らしているか。大人はこれまでに、学校の授業やテレビ番組などで情報を蓄積してきているわけです。少なくとも、自分の身の回りと違う環境でも、人間が住んでいることを知っている。だから、パプアニューギニアと言われても、そこに人がいることや、帰るにはどうすればいいか、ということを考える余地があるわけです。そもそも、親がそんなことができるのか、を考えることもできる。でも、子どもは大人よりも判断材料が少ないから、親にそれっぽいロジックや情報を提示されて「こうだ」と言われると、本当のように感じてしまう。
 パプアニューギニアの話ですが、父にとっては冗談半分でも、妹はそれで「本当にそうされるかも」と信じてしまうわけです。この場合、「親は自分のことを愛してくれているはず」という認識に対して、それとは違う言葉が出てきたのもショックだったのかも知れません。
 いずれにせよ、同じ内容の話でも、受け手の判断材料次第で心理的な印象はがらりと変わってしまいます。これは叱る時も誉める時も同じことです。
 困ったことに、子どもの情報というのは、親が考えているものと、質量ともにずれがあります。知ってるだろうと思っていることを知らなかったり、知らないと思っていることを知っていたり…性に関する知識について、こうしたことが言われることが多いように見えますが、これは様々なところで起こりえることだったりします。
 よく、個性に合わせて、という言い方をします。そうした場合には、その子の性格傾向だけではなく、こうした知識や情報のギャップにも気を配ることでより良い形になるように思います。

 <子どもを取り巻く人々>
 知識のギャップとともに考えて欲しいのは、子どもの世界にどれだけの人がいるのか、という点です。
 子どもの頃、小学校に上がる前くらいを思い出してみてください。自分を取り巻く人々が、今現在よりも少なかったことに気づくと思います。家族に親戚、近所の人、近所の友達、幼稚園・保育園の友達などなど…大人になった現在ですと、学生時代の友達や会社の友達、趣味の友達などなど、色々な人が挙げられると思います。こうしてカテゴリー別に書くとあまり差が無いように見えますが、実際にはそれぞれのカテゴリーごとの人数というのは大人の方が多いわけです。さらに、今現在は関わりがなくても、これまで出会った人というのは、自分の世界を形成するために一役買っています。学校の恩師や、昔のクラスメート、亡くなった人などなど…こうした出会いがあるからこそ、大人になるごとに世界は広がってきたわけです。
 10人の中の1人と、100人の中の1人では、単純に考えれば前者の方が一人あたりの重みは大きいと言えるでしょう。もちろん、その重みというのは、関係性によって変わるから同じではありません。
 ただ、大人と子どもで、一人の人間が与える影響力が違うのは、こういった点から想像できると思います。大人になってからも大きな影響を受ける人物との出会いはあると思います。ただ、子どもの頃の方が一人の人間の与える影響が大きい可能性が高い、ということはわかっていただけるかと思います。
 妹のエピソードでは、こうした年齢による影響が大きかったことも、一つの要因だと思います。

 <子どもにどう接するか>
 子どもの世界というのは、小さく出来ている分、一つ一つの経験が非常に大きな影響を与えていきます。先ほど関係性について少し触れましたが、親というのは子どもにとって大きな存在です。子どもが小さい頃はなおさらでしょう。だからこそ、親の責任はとても大きいと言えます。でも、逆に言えばそれだけ責任ある、重大な仕事をしているわけです。子育てというのは、大げさに言えば次の時代の礎を作ることでもある。それがどう化けるかは、本当に親によるところが大きいのです。私は子どもはいませんが、親子の姿を見かけると、本当にすごいことをやっているな、としばしば思います。
 子どもの世界に大きな影響を与えるという意味では、周囲の人間の振る舞いも一緒です。子どもの成長というのは、親に全てがかかっているわけではないのですから。もっと言えば、親のようにいつも会えるというものではないからこそ、一回一回の関わりは重要だとも考えられます。茶道で言う一期一会ですね。子どもと接する時にせめて、マイナスの影響を与えないように振舞えたら良いなと思います

2005年7月号

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