ママとパパのリレーエッセイ
ー第63回ー
園田 映人 さん

人間、気がついたら死ぬ当日なのだ、と思っています。後悔や不信の中で生をおえるより、感動と許しの中に死を迎えたいものです。

映像という仕事での野心はあります。例えばブルームはデジタルデータ(apple prores422という最新コーデック)が完成版ですので理論上重さも姿もなく劣化しません。300年後、知らない国の知らない人が21世紀の三鷹のお母さんの言葉を聞き、心を動かされる、ということは十分にあり得ますし、そうなったら素晴らしいことです。別に300年後ではなくともどこかの誰かの心を動かす可能性があるのが映画です。
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そういった目に見えない方々のために真心を込めて作品を作るのが私の理想です。

・・・しかし、人生を彩るのは仕事ばかりではないはずです。自分の関わった多くの方、とりわけ縁あってともに生きる自分の家族との日々が人生の主旋律です。

特に、不思議な必然で出会った妻との間に授かる子供の存在は大きなものであると、日々考えを新たにしております。
娘が妻に宿っているときに、切迫流産、切迫早産で合計5ヶ月も妻が入院していました。
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たまたま退院して妻が家にいるときに、仕事を終えて早めに家に帰り、2歳の息子を風呂に入れました。

「今日はママは何してた?」
「ママは泣いてたよ」
「ずーっと泣いてたの?」
「ずーっと泣いてたよ」

いつものことながら、陰々鬱々たる気持ちになりました。暗い気持ちの家庭には他人を責める思いが侵略してきます。私は知らず識らず、なんで出来もしないのに家事を自分でやろうとするのだろう?とか、早く実家に帰ってしまえば良いのに、とか、
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息子がかわいそうだ、等と根拠の薄い、妻を責める気持ちが出てきました。

「ママが泣いてたとき、君は何をしていたの?」

と息子の頭を洗いながら聞いてみました。息子はじーっと天井を見据え、

「・・・座ってた」

と言いました。

私にはとても意外な言葉でした。
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ちゃんと座ってたよ」という響きがその言葉には確かにあり、子供なりに状況を受け止めていることの誇らしさを感じているらしいのです。

人に言われても中々反省できないものですが、このときばかりは自分が家族のおかれた状況から逃げようとしていることを思い知らされた気分でした。「受け入れなさい」と。

子供は単に逃げることを知らないだけかもしれませんが、私の態度、思いと比べてどちらがより人間らしいかは申すまでもございません。このときの息子は私にとって最強の教師であり、鏡のような存在だったのです。
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4歳を前にしておしっこ漏らし、1歳の娘をソファから突き落とすことは日常茶飯で連日のように声を荒げる妻の雷がこだまする我が家です。子供との対話がいつも感動と発見に満ちている訳では全然ありません。が、時に子供は親にとって得難い道しるべになる、ということが今では分かっています。

授かった子供との毎日から、何を得られるのかが楽しみでなりません。そうした一日一日の積み重ねが、人生の主旋律になると信じ、歩み続けたいと思っています。
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2008年5月号