ママとパパのリレーエッセイ
ー第65回ー
富岡史棋  さん

 もうすぐ長女が四歳になろうとする六月の夕方。長女と手をつなぎ、ベビースリングから顔と手をのぞかせた次女を首からぶら下げて、コンビニから歩いて帰る道すがら。車が通らない道に入り、ビーチサンダルで先を走る長女。「こけるから気をつけろ」とひと声。聞かない娘。しばらくして「どたんっ」、大きな音とともに、「わー」というそれよりさらに大きな泣き声。「ほら、言わんこっちゃない」と、別に驚きもせず、長女を起こして抱きかかえる。「いたいのいたいの、とんでゆけー」、まだ泣き止まぬ娘にかまわず、そのまま手をつないで歩き出す。 
 このなにげない日常が、とても幸せなことだと思う。
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 子が生まれると親となる。というよりは、自動的にならされると言った方がいい。出産立ち会い。新しいいのちを抱いた瞬間。まだよく見えない目で、抱かれている先を見つめる我が子を見つめ返す。この瞬間、親となったという実感より、何ともいえない不思議な気持ちになったことを憶えている。

  自分が子を授かってはじめて分かる。わたしの両親も最初から親ではなかったということを。子からすると、親は最初から親の顔をしていて、何でもできる存在に思うかもしれないが、実際は決してそうではないということも知る。分からないことだらけだ。
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特に第一子の誕生は、未知の体験ばかりである。子の成長とともに、いつしか親の顔になってゆくものだと思う。もうそろそろか、まだまだか。

わたしの両親の気持ちが少しだけ分かった気がする。同時に、自分が子どもの頃の生活を思い出してみた。我が子をながめるように、自分がどんな子だったかも思い返してみた。あの頃とそんなに変わらない自分がいるようだ。あらためて、善悪の判断基準は両親から教わったということも知る。
 
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 ここ数年の「親の子殺し」「子の親殺し」に最もこころを痛めている。毎日のニュースに含まれていない日はないような、これが当然なのかと受け入れてしまいそうな現実(余談だが、家には二年前からテレビがない。こんなニュースから伝わってくる、何とも言えないいやな雰囲気につつまれたくないからだ)。しかし、断じて、これはあってはならないことだ。わたしは、あってはならないことだと言おう。
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 生まれたばかりの赤ん坊は、放っておけば糞尿まみれになり、母乳(またはミルク)を与えなければ、すぐに死んでしまうことぐらい、誰でも想像できるのではなかろうか。今、わたしが生きていられるのは、まぎれもなく、わたしの両親のおかげだということ。これはどういうことか。「親の子殺し」「子の親殺し」の当事者も、その時期を過ごしたということだ。思い出してほしい。そして、今とこれからを生きる子どもの可能性を、親が奪うことだけは、どうかやめてほしい。これが、わたしの一番のねがいである。
 
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明石家さんまさんが座右の銘にしていると言われる「生きてるだけで丸もうけ」ということば。「その通りだよ」と、夕暮れの涼しい道すがらそうつぶやく。




富岡史棋 グラフィックデザイナー
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2008年7月号