一般社団法人みたかSCサポートネットを立ち上げたチカラ~第2回 小学校というところ

公開日 2019/06/10

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 一般社団法人みたかSCサポートネット代表理事の四柳千夏子です。防災教育や補習学習などで、学校教育とコラボしながら子どもたちの支援活動をしています。

また、文部科学省総合教育政策局コミュニティ・スクール推進員(CSマイスター)としても、全国区で活動しています。

三鷹の教育にどっぷりとはまっているこの20年間を8回にわたりおはなしさせていただきます。


<第2回> 小学校というところ

~PTAと、娘たちのことと~
平成13年4月、長女が市内小学校に入学。この頃は、流行りのように「開かれた学校」という言葉をよく耳にするようになった。学校の敷居を低くして、いろいろな地域の人がどんどん学校に足を運び、かかわってもらおう、ということだった。

それまで年子の娘の子育てに明け暮れ、ただひたすら子どもたちと毎日を過ごしていただけで、学校や教育のことにはまるで関心がなかった私は、娘の小学校も「開かれた学校」とやらになっていくんだなぁ…、ぐらいにしか思っていなかった。


~わが子をとおして見えた学校の姿~
長女は、何が引き金になったのか、幼稚園の頃から乱暴者だった。低学年の頃は、クラスですぐキレて男の子に暴力で向かっていく娘だった。娘にしてみれば、何か理由があったのだろうが、いきなり蹴りを入れてしまった相手の親御さんから抗議の電話をいただいたりして、私はいつも平謝りしていた。担任は年配のベテラン先生で、娘の行動を「この子は異常性がある」と受けとめていたようで、私も何度か呼ばれて面談を受けていた。

あるとき私の代わりに主人が学校に行ってくれ、帰宅するなり、「うちの子とあの先生は多分相性が悪いと思うよ」と言った。私はビックリした。

私は、古いタイプの人間なのか、学校の先生というのはゼッタイであり、子どもを見る目は間違いないものだと思っていた。だから、うちの子の暴力的な行動は、子どもの性格に異常がある、つまり、私の子育てが間違っていた、非は私にある、とずっと思い悩んでいたので、先生との相性、なんてことは思いもつかなかったからだ。私の中で、学校の先生に対する認識が少し変わっていった

学年が変わり、担任は別のベテラン先生になった。4月の当初、その先生はそれまでの娘のことを何も知らないようで、PTAで学校に行ったときに「娘さん、こんなエピソードがあってね、とっても面白いの」とあっけらかんと話してくれて、私は前の先生から聞いていないのかな?と思っていた。そのうち娘もだんだんと暴力を振るうことが無くなったようでホッとしていた。その年の12月の個人面談で、その先生は「お母さん、娘さんはもう大丈夫ですよ」と言ってくれたのだった。私は恥ずかしいことに先生の前で大泣きした。

そう、先生はもちろん前の担任から娘の行動のことは聞いていたし、よく知ってもいて、そのうえで指導をしてくれていたのだった。私は今でもその先生に感謝している。先生がいなかったら、娘はどんな子になっていただろう。

一方、次女のクラスは、1年生にして学級崩壊。学級担任は、私とあまり年の変わらぬ女性の先生だったが、一部の男の子が、勝手に立ち歩く、床に寝そべる、そのうち先生の言うことを聞かなくなり、先生が子どもたちの前で泣き出す始末。

結局11月ごろに、当時の教頭先生が担任代行となり、何とかクラスを収めてくれた。30人弱のクラスの親の思いは様々だった。

「うちの子は悪くない、悪いのは先生」と主張する人もいれば、クラスで起きていることを全く知らない人もいる。保護者会で顔を合わせても、先生は保護者に遠慮し、保護者も先生に遠慮があり、言いたいことも言い合えない。保護者同士の間にも、言いたくても言えないことが、見えない糸のように絡み合って、保護者会の雰囲気を固まらせていた。解散すると、決まって学校の裏にある自転車置き場のあっちでヒソヒソ、こっちでコソコソ。事実かどうかもわからないクラスの様子が、お母さんたちのうわさ話の的になる。

何が事実で、どうすることが解決の道なのか・・・。子どもを思うあまり、翻弄される大人の姿があった。

自分の子ども、というフィルターから見える学校の姿は、実は学校のほんの一部分でしかない。子どもが、その一日の大半を過ごしている「学校」というフィールドは、もっともっと広く、多様で、豊かな世界だということを知ったのは、これから語るPTA活動で学校を知る機会があったから。

私の世界が広がるきっかけは、ここにあった。

~役職が学ばせてくれた PTA会長としての日々~
平成14年4月、長女が小学校2年生になり、年子の次女が1年生に入学した年、PTAの会計を引き受けた。幼稚園の父母会時代の評判が小学校PTAにも聞こえていたらしいことと、たまたまそのときのPTA会長が知人だったことで声がかかった。「そんなに大変じゃないから大丈夫よ」と言われ、その人にお世話になっていたこともあって「じゃあやってみます。」と、今から思えばかなり安易に答えてしまったものだ。

小学校の委員をやったこともなく、幼稚園時代の「役員は楽しい!」という経験値だけで引き受けたわけだが、初めての運営委員会に出席した時、即座に引き受けたことを後悔した。ロの字に並んだテーブルに40人ほどの学級委員、各委員長、地区長そして相対する役員と学校管理職。高学年のお母さん方は迫力たっぷり。意見もはっきり言う。何にもわかっていない私は、「場違い」感しかなかった。

話についていくのにも必死だったが、会長は経験豊富な方で、役員会での打ち合わせでも経過説明をわかりやすく話してくれたし、PTAのあるべき姿などをよく語ってくれた。学級崩壊状態の娘のクラスの話をしたら、校長室に連れて行ってくれて「校長先生、四柳さんの話を聞いてあげて」とつないでくれた。特別にそうしてくれたのは、私を次の会長に据えるための伏線だったということは、後から聞いたことである…。

翌年、私はPTAの会長となった。PTAは圧力団体ではない、学校の大切なパートナーであり、学校と連携をとるためには、会長が校長先生と連携をとることが大切、用が無くても足繁く校長室に通い、情報交換をするように、とは先輩会長からの教えだった。なので、校長室にはとにかく足繁く通った。フツーのお母さんが、何の用事も無いのに校長室のドアをノックするのはそうとう度胸がいる。今の三鷹の校長先生方は、会議や出張で多忙を極め、学校にいないことが多いが、まだあの頃はノンビリ話をする時間もあった。校長先生もとても気さくな方で、校長室にお邪魔しては、学校の様子、校長の教育観などから経歴まで、いろんなお話をして相互理解を深めた。

もう一つ先輩会長がよく話してくれたのは、PTA活動に関わることのメリットについてだった。その先輩はそれを“美味しみ(おいしみ)”と表現して「PTAに関わって何か委員をやってくれた人には、その美味しみを感じてもらわないといけないのよ。」とよく言っていた。学級委員になると、担任の先生とよりコミュニケーションが取れること、我が子の様子、学校の様子がよくわかるようになること、自分の友達が増えること。それがPTA活動の美味しみ。そして会長は、決して会社の社長ではない、たくさんいる保護者の代表者であるだけなのだ、とも。

保護者にもいろんな人たちがいることを知った。家庭の状況も人それぞれ。学校に対する考え方、PTAに対する考え方、子育てに関する考え方も一人一人違う。間違っている考え方も無いかわりに、正解も無い。だから、PTAに関わることができている自分の状況や考え方を判断基準にしてはいけないこと、関わりたくても関わる時間が無い人、時間が無いのに何とか関わろうとしてくれている人、関わる気が無い人、いろんな立場を総合的に考えたうえで物事を決めていくことがPTAのリーダーとしての役割だということを学んだ。

もちろん、楽しいばかりではなかった。運営委員会で様々な議論があり、問題が起きたり、アンケートで厳しい意見をもらったりすることもあった。地域との関係も役員がその橋渡し役にならねばいけなかったし、地域団体との会議はいつも緊張した。PTAを知り尽くした先輩方が居並ぶからだ。地域との共催行事は緊張感ハンパなかった。常にアンテナを張り続け、何かあると「PTAさーん!」「会長さーん!」と呼ばれ用事を頼まれそれを遂行するのが務めだった。要するに「鍛えられた」。

それでも務められたのは、役員仲間に恵まれ、結束が固かったこと。役員会で学校に集まるのが楽しかった。実は今でもたまに会ってはあの頃の話に花が咲く。お互いを尊重し、大切にしあう素晴らしい仲間の存在と、周りの人に助けられて、また揉まれながら、自分自身が一人の人間として磨かれていったのは、間違いなくこの3年間があったからだ。

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一般社団法人みたかSCサポートネット http://mitakano.grupo.jp/
 

2019年6月号