公開日 2019/11/10
一般社団法人みたかSCサポートネット代表理事の四柳千夏子です。防災教育や補習学習などで、学校教育とコラボしながら子どもたちの支援活動をしています。また、文部科学省総合教育政策局コミュニティ・スクール推進員(CSマイスター)としても、全国区で活動しています。
三鷹の教育にどっぷりとはまっているこの20年間を8回にわたりおはなしさせていただきます。
<第7回> あれから9年
~平成23年3月11日 東日本大震災~
午後2時46分。私は、中学校の放課後の居場所のイベント開催中で、数名の大人の安全管理者と数名の女子中学生とで、一緒に調理室でクッキーを作っていた。「ん?地震?」と思ったら天井の蛍光灯が大きく揺れ、窓ガラスがビリビリと音を立てた。何より怖かったのは、調理室の壁一面の食器棚が今にも割れんばかりの音とともに揺れたことだった。教室全体がゆっさゆっさと揺れた。揺れが収まり、一度廊下に出てみると、揺れの余韻というのか、校舎全体がみしみし、きしきしと音を立てていた。本当に怖かった。しかし、そんなことをいっていられなくなったのは、間もなく次の大きな揺れが来てからだ。恐怖に中学生が泣き出してしまう。この子たちを守らなくては!とっさにそう思った。そうはいっても何をどうすればいいのか、わからなかった。
とにかくみんなを集め、低い姿勢をとった。校内放送は流れたのか流れなかったのかも覚えていない。ただただ、自分の恐怖と、この子たちを守ることに必死だった。揺れがおさまったところで校庭に逃げた。まだ学校に残っていた生徒と先生方も校庭に避難していた。その日は保護者会が体育館で開催されていた。その保護者も校庭に避難してきた。みんなの顔がこわばっていた。「岩手、宮城、福島でとんでもないことが起きている。」
東日本大震災だった。
三鷹は震度5弱。東京は大きな被害はなかったものの、交通がマヒし、多くの帰宅困難者が発生した。都内の高校に通っていた長女も帰って来られなかった。一瞬だけ奇跡的に電話がつながり、学校に泊まることがわかった。次女も学校からの電話で無事が確認できた。
数日たって実家(茨城県)の家族も無事なことがわかって一安心だったが、テレビからは、恐ろしい津波が町を嘗め尽くすように飲み込んでいく様が映像で飛び込んでくる。これが今東北の太平洋側で実際に起きているということに我が目を疑い、言葉を失った。
私たちの生活も大きく変わった。スーパーの棚からは食料や水が無くなった。次女の卒業式はあわや、だったが学校のとりはからいで式だけは、と短縮版で行った。謝恩会は中止だった。卒業式自体が中止になった学校もたくさんあった。
~考えさせられた日々~
マスコミも毎日被災地情報の報道を続けた。家を失い、まちを失い、友を失い、家族を失い、あまりにも大きな絶望のなかで、「がんばろう!東北」とか「絆」とか言葉が躍るたびに私は考えさせられた。一体私たちには何ができるんだろう、と。
恐怖におびえる女子中学生を前に、体がすくんで何もできなかった自分。被災地にボランティアに行くわけでもない、寄付をするわけでもない、ごく普通に生活している自分。被害にあわれた方々を思う気持ちはもちろんあったけど、「かわいそう」とか「気の毒」とか言ってはいけない気がしていた。ましてや「がんばって」は口にしたくなかった。何も行動を起こさない、ごく普通の主婦に何ができるというのか。
~サポートネットの誕生~
ちょうど同じ時期に、コミュニティ・スクールを支える実働部隊の必要性が生じた。人に勧められたこともあって、中学校の居場所を一緒に立ち上げた相方と共同で、PTA活動や地域子どもクラブの活動で一緒にやっていた仲間に声をかけてお手伝い部隊のようなグループを作ることにした。「子どもたちのために、何かできることをやりたいから手伝って」と声をかけたのだが、PTAの役員を経験している人や地域子どもクラブに携わっている人たちは、“子どものため”という言葉にめっぽう弱いのだ(笑)。集まってくれた人の実に半数がPTA会長経験者、という顔ぶれだった。
そして、このメンバーで考えた。「私たちに何ができるのか」を。
メンバー全員が母親ということもあって、話題は「子どもの命を守るために私たち何ができるだろう。」ということだった。あの頃は、テレビも新聞も防災一色だったし、防災マニュアル本もたくさん出ていた。とにかく私たちはそれぞれのやり方で勉強した。勉強してみてわかったのだが、防災の情報は巷にあふれていて、しかもどれも大切で、結局何が一番大切なのかがわからない、といったことだった。
そんなときに出会ったのが“釜石の奇跡”だった。
大きな被害があった岩手県釜石市だったが、鵜住居(うのすまい)地区では、中学生たちが率先して避難したことで、子どもたちの生存率がほぼ100%だった、というのがいわゆる“釜石の奇跡”だが、そのとき聞いたのは、それが決して“奇跡”ではなく、言い伝えと防災教育の積み重ねによるものだということだった。過去にも大津波があったこの地区には“津波てんでんこ”という言い伝えがあるそうだ。もし、大津波がきたら、てんでんばらばらに、家族のことさえ気にせず一人で避難せよ、というものだが、そこにはもっと深い意味があり、家族がそれぞれ避難していることを信じあえる絆がなければとてもてんでんばらばらに逃げることなどありえない。“津波てんでんこ”には、自らの命に責任を持つこと、家族との信頼関係を築くこと、という意味があるのだそうだ。
「大人がそばにいないときでも、自分で判断、行動できる」。そうか、子どもたちの命を守るためにできることは、子どもたちに「自分の命は自分で守る」その力をつけてあげることだ。母親の私たちだからこそ、母親目線でできる防災教育がそこにある。ここから私たち『みたかスクール・コミュニティ・サポートネット』がスタートした。
一般社団法人みたかSCサポートネット http://mitakano.grupo.jp/
2019年11月号